修羅場に遭遇した時、その対処はそれぞれ違うだろう。
大まかに分けて、次の3つがあると思う。
- 一緒に修羅場の中に入り、修羅場をかいくぐる。
- 修羅場の外から手を差し伸べる。
- 修羅場をぬけるのをじっと見守る。
さあ、どれが一番良いのだろう?というのではなく、その人それぞれで、どれが良いというのではなく、その人それぞれに力や相手の事をどれだけ知っているか理解しているかでも変わる。
ここでひとつずつ考えてみよう。
まず、一緒に修羅場の中に入るというのだが、これが一番良いように思えるのだが、これはもっとも間違いなのかもしれん。
なぜなら、この行動を取る人は、修羅場の当事者と同じレベルかもしくはそれ以下の者がとる行動だ。という事は、修羅場を解決するどころか、より一層悪くさせる事になりかねない。
次に、修羅場の外から手を差し伸べるというのはどうか?
これをするには、修羅場の当事者より可也レベルの高い者で無ければならない。もし同レベルやそれ以下のレベルの者がやると、信頼感をなくす。なぜなら、余計な事をするなとか、俺がこんなに苦しんでるのに、お前には分からんとか、自分たちだけ安全なとこに居やがってなどと思われてしまう。
その次の、修羅場をぬけるのをじっと見守るというのはどうだろうか?
これは、一番ひどいようにも思えるが、一番正しいのかもしれん。なぜなら、これは修羅場の当事者を確り理解していないと出来ない。理解しているから、当事者の力を信じ見守れるし、全体も見れるし、それによって適切な対処も取れる。もっとも、理解をしていない者がこの行動をとると、お前は逃げやがっていいかげんな奴やとなる。
あっと、どれが良いかになってしもうたかなぁ・・・。
正しい武道の世界では全てが技術であるという。
これは言い換えると、生きる物全てに当てはまるのではないだろうか。
人間は特にこのことを忘れている。
だから、武道や宗教の世界で改めてこの事を言うのだろう。
全てが技術であるというのは、全てにおいて無駄が無いということなのだろう。
たとえば、仏教などで云う、衣食住の全てが修行だとしているように、一つ一つの行動や考えが、己の力になるという事。
だから、たとえどんなに些細な事であろうと、決して安易に過ごしてはならないし、次の行動がその次の行動へと繋がるのだということを心する事である。
森羅万象全てに通ずる。