蛇足・カゲやんの目

修羅場2

修羅場に遭遇した時、その対処はそれぞれ違うだろう。

大まかに分けて、次の3つがあると思う。

  • 一緒に修羅場の中に入り、修羅場をかいくぐる。
  • 修羅場の外から手を差し伸べる。
  • 修羅場をぬけるのをじっと見守る。

さあ、どれが一番良いのだろう?というのではなく、その人それぞれで、どれが良いというのではなく、その人それぞれに力や相手の事をどれだけ知っているか理解しているかでも変わる。
ここでひとつずつ考えてみよう。

まず、一緒に修羅場の中に入るというのだが、これが一番良いように思えるのだが、これはもっとも間違いなのかもしれん。
なぜなら、この行動を取る人は、修羅場の当事者と同じレベルかもしくはそれ以下の者がとる行動だ。という事は、修羅場を解決するどころか、より一層悪くさせる事になりかねない。

次に、修羅場の外から手を差し伸べるというのはどうか?
これをするには、修羅場の当事者より可也レベルの高い者で無ければならない。もし同レベルやそれ以下のレベルの者がやると、信頼感をなくす。なぜなら、余計な事をするなとか、俺がこんなに苦しんでるのに、お前には分からんとか、自分たちだけ安全なとこに居やがってなどと思われてしまう。

その次の、修羅場をぬけるのをじっと見守るというのはどうだろうか?
これは、一番ひどいようにも思えるが、一番正しいのかもしれん。なぜなら、これは修羅場の当事者を確り理解していないと出来ない。理解しているから、当事者の力を信じ見守れるし、全体も見れるし、それによって適切な対処も取れる。もっとも、理解をしていない者がこの行動をとると、お前は逃げやがっていいかげんな奴やとなる。

あっと、どれが良いかになってしもうたかなぁ・・・。

正しい武道の世界では全てが技術であるという。
これは言い換えると、生きる物全てに当てはまるのではないだろうか。
人間は特にこのことを忘れている。
だから、武道や宗教の世界で改めてこの事を言うのだろう。
全てが技術であるというのは、全てにおいて無駄が無いということなのだろう。
たとえば、仏教などで云う、衣食住の全てが修行だとしているように、一つ一つの行動や考えが、己の力になるという事。
だから、たとえどんなに些細な事であろうと、決して安易に過ごしてはならないし、次の行動がその次の行動へと繋がるのだということを心する事である。
森羅万象全てに通ずる。

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雅(優雅)とは2

確かに、働いた分だけ飯を食わせて帰(返)す。当然の事である。
だが、貸すほうは貸したからには、どのような状態で帰(返)ってきても、または、帰(返)ってこなくとも、嘆いたり愚痴ったりしてはならん。それが、どんなに大切な物であったとしても、貸した自分が納得をして貸したのだから、どのようになろうとも、とやかく言うものではない。
ようは、そのくらいの覚悟で、人に貸せなければ、人に貸してはいかんという事です。

ほんなら、借りるほうはどうでもいいのかとなるが、どうでもいい奴には貸さなければいいだけのことである。そんな奴に貸してしまって文句を言うのは筋違いだ。
どうしても、どうでもいい奴に貸したいという者は、どうでもいい奴が、どうでも良く無いのやと気付かせるぐらいの者になる事です。
そうすれば、貸し借りで揉める事もないし、嫌な思いもしなくてすむ。

雅とは、果たしてどうゆうものなのか?
私には解らんが、考えるに、自分自身が心豊かに持つのはもちろんだが、他の人を心豊かにする、または、その豊かな心の大切さを気付かせる事ではないのだろうか。

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誉め上手と誉められ下手2

誉める誉められるのに上手下手などと、考えて行動すると、単なる要領の良い人になってしまうだけではないのか。まぁ、要領の良い人が悪いというわけではない。要領が良いのは、物事がスムーズに進められて良いのではないのかな?
でも、本当に誉めるという事になるのか、また、誉められるという事になるのか?

人を誉めるというのは、その人を認めるということで、認めるから誉めるのだろう。
そうすると、誉めたり誉められたりするのに、上手下手など無いだろう。
また、上手く誉めようなどと考えるのも可笑しいよ。上手く誉めようと考えるという事は、無理して誉めようとしているからだ。無理に誉めても、誉められるほうは気持ちよくないだろうし、相手に不信感すら抱くのではないか?
また、誉められようとすると、どこかで媚びてしまうのではないか?媚び諂うというのは、己を卑屈にしてしまうだろう。

誉められるより叱られるのが良いというが、叱るというのは、相手を認めていなければ、意味が無いように思う。認めているからこそ、叱るのである。相手を認めていないで叱るのは、叱るとは言わない。ただ単に、気に食わんから当り散らすのと同じや。
評論や批評もそうだと思う。相手を認めてこそ成り立つのである。そうでなければ、たんなる誹謗中傷になるだけだ。

誉めるにしろ、叱るにしろ、相手を認めているからだ。
認められているからこそ、誉められても叱られても嬉しいとなる。

人と人、お互いを認めあうことから始まる。

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相談ごと2

他人に相談するという事は、まだ気持ちに余裕があるから出来る事だ。本当に切羽詰った時には、他人に相談しようという余裕がなくなるのではないだろうか。
死を選んでしまうような時は、なおさらだろう。だが、その様な人は、死を選ぶに至るまでに、気持ちに余裕があるとき、何らかのたわいの無い相談を、もしくは、何らかの問いかけをしているのではないだろうか?
普通は、この事に気付かずに対処してしまうものです。後に、この事に気付き後悔してしまう事になる。

ならどうすれば良いのか?その答えは、おそらくこれだというのは無いだろう。
あるとするならば、その人を理解するそして認める事、そして自分自身も心豊かに持つことにあるのではないだろうか。

傾聴・受容・共感というのがあります。これは介護の基本だそうです。
相談ごとも、この傾聴・受容・共感というものが欠かせないように思う。

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