蛇足・カゲやんの目

驚いた話2の2

私の生まれ育った所は、山の中でした。食料品の売っているような店は近くにはなかったのと、我が家は貧乏ということもあり、我が家の食卓には牛や豚の肉が載ることは無かったです。
その代わりといってはなんだが、肉が食卓に載るといえば、山を駆け回る動物でした。もっともこの肉も極めてまれにでしたけど。
鶏は飼っていたので、卵を生まなくなったら、鶏肉が食卓に載るわけです。
山で獲ってきた動物の首をはねたり皮をはいだりして解体しているのを見ながら、今日はご馳走やと子供心にワクワクドキドキしたものです。
私は十歳ぐらいに、家族で大阪に出てきて以来、このような生活をすることがなくなりました。

たまに、山間に遊びに行ったときに、ウサギなどに出会うと、可愛い等と思うより、美味そうやなぁ・・・などと思ってしまう。子供の頃なら必死になって追いかけただろうが、今の私にはそこまでしてウサギの命を奪う必要は無い。

行為だけを取り上げると残酷なように思うが、生きる上での必要とあるものは、善悪や残酷などというものでは語れないのではないだろうか。

中国のある地方では、胎児や赤ん坊の肉を食う村があるとは・・・!
人が人を食うという行為はとんでもない事だと思うが、それだけに、その村では人を食うということに、何か物凄い意味合いが有るのではないかと思ってしまう。
同じ人を食うことでも、楊貴妃の食と村人の食は全く別ものだろう。

人の肉を食うというのは別として、生きていくには食わなくては生きていけないから食う。当然のこと。食うからには美味い物を食いたいし、同じ物でも美味く食いたい。こう思うのも至極当然のことだと思う。
よって、生きるために喰らうか、美食のために喰らうかを分けるのではなく、生きていくために「必要な物を必要なだけ食するということ」が大事だと思う。現代人は、この大事な部分を忘れているように思う。
経済活動というものが、「必要な物を必要なだけ食するということ」を無視させてしまっているのではないだろうか。

いま我々は、必要以上に食しているために、必要以上に美味いものを求めすぎているのではないだろうか?そのために、本当の美味さも分からなくなっているのではないのかなぁ?
楊貴妃も、同じだったのではないだろうか?

私が思うに、本来味覚を感じる機能は、身体に必要か必要でないかを選別するための物だと思う。まぁ味覚だけではなく、臭覚や視覚もやが、味覚は必要な物を身体に入れるための最終チェック機能やと思う。 現代人のように、本当の美味さが分からなくなってしまったら、せっかくの機能も働かなくなってしまっているのではないだろうか?
この事は、飢え過ぎても同じように思う。

鳥葬でハゲタカかハゲワシかが人肉を食わなくなったというのは、ハゲタカかハゲワシかがしっかりこの機能を働かせている証拠ではないだろうか?

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