蛇足・カゲやんの目

般若心経2

私のような者には、お経などというものは漢字ばかりで、なにやら呪文のようなものにしか見えない。
なぜ良い事を書いてあるのなら、私のような者にも、もっと解りやすい言葉にしてもらえんのだろうか?
仏教の創始者であるお釈迦様は、その人の言葉やその人の目線で説法したと聞きます。なのに今のお経は、サッパリ解らんではないか。お経はありがたいものだとか、これをただ読めば良いとかというが、私は、何のことやら理解に苦しむ。
私が思うに、なにやらわざと難解にしているのではとまで思えてしまう。こんな事を言うと、怒られるかな?お前が、頭が悪いからなどと・・・言われるまでも無く、確かに、私は頭が悪いです。

こんな難解な物にしているから、死後の世界はどうたらとかと、なるのではないだろうか?仏教は、死者の為にあるようななどと、間違ったものになってしまうのではないだろうか?
私が思うに、仏教は人間がこの宇宙の中でどのような立場かを知り、いかに生きるかという事を説いているのではないのかな。今を生きている者の為の法ではなのだろうか。
私が聞きかじったところによると、お釈迦様の弟子が、お釈迦様に死後の世界はどうなのか?と訊ねたら、おろかな事を考えるでないというような事を言ったということです。

仏教というのは、見えないものや、見えてるけども本質を捉えていないものに、惑わされないように導くための法ではないのかなぁ。
お経は、その為の道しるべなるものではないかと思う。

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言霊2

言葉に、言霊なる力があるのだろうか?
確かに、ちょっとした言葉が幸せな気分になったり、また傷ついたりと、言葉の使い方ひとつで同じ言葉でも受け方が可也変わってしまう。
私などは、何時も苦しむのが女性の言葉で・・・。素直に従えばアホかと言われ、ならと進めば引っ叩かれと、まことに難解です。

良く、あたかも言葉に何等かの力があるように「だれだれがあんな事を言うたから、こんな事に成ったんや!」などと言う事を耳にしますが、そゆうときはたいがいが悪い事で良いことではあまり聞かない。どうゆう事なのか?

言葉にすれば、その通りになるというなら、悪い事ばかりでなく、良い事を言えば良くなるはずだ。政治家の選挙運動などでは、みんなが良い事ばかり連呼しているではないか。もし言葉にしたものがその通りになるなら、皆が幸せになるだろうに、そうは成っていないのが現実だ。

また、綺麗な言葉遣いが良いともいうが、綺麗な言葉遣いの人が良い人になるはずだがどうだろうか?
汚い言葉というか言葉遣いの悪い人が、良い人やったりするのはなんでや?

それと、今の若者の言葉が乱れているなどともよく聞くが、これもどうだろうか?
おそらく、「今の、若い奴は・・・」というのと同じ事ではないか?何時の時代も、延々言われて来たことではないのかなぁ。
何時の日か、言葉が乱れていると言われている若者が年老いた頃、彼らは、今の若い者の言葉はなっていない等と、言うているのではないだろうか?

言葉は、自分自身が物事を考えたり、また自分の思いを人に伝えたり、他の人の思いを理解したりという事をスムーズ進めるための道具に過ぎないです。
むやみに言霊などと惑わされ、言葉に何かの力がなどと考えると、言葉そのものや言葉の持つ本質を、失う事になりかねないのではないか。

言葉そのものというより、言葉に乗せる心の想いが大切なのです。
想いがあれば、言葉無くとも通じ合えるはず。

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国民年金2

年金問題は、若者が年金を払わないから成り立たないのではなく、今までええ加減な運営をしてきた事にあるのではないのだろうか?
それによって、先行きが解らなくなり、払っても後に貰えるのだろうかとなるから払わない。払わないから、余計苦しくなる。若者のせいにしては、あまりにもかわいそうや!
年金は、元来払ってきたお金が運営されて、そのお金がある程度の年代になったら、戻ってくるというものではなかったのかなぁ?

記憶が定かではないが、ある有名な経営者の本を読んだことがあるが、その中に税金を旨く運営していれば、年金など払わなくともやっていけるなどというような事が書いてあったように記憶している。(記憶違いなら、すみません)

いったい何が間違っていたのだろう?

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